「言葉は力である」千と千尋の神隠しを通して宮崎駿監督が伝えたかったこと

こんばんは、愛です。

週末は学校から出された課題と睡眠でつぶれました。

課題の内容は、スラム街を見学する課外授業へ行くにあたり、「日本のNGO/NPOの現状」を調べてプレゼンするというものでした。

もちろん英語です。

いや〜苦戦した、、久しぶりに長時間机に座ってパソコンとにらめっこしたよ。

英語でプレゼンする以前の問題で、高卒のわたしはNGOやNPOについてすらまともに説明できませんでしたが、この3日間で簡単に説明できるくらい理解できたと思っています。

わたしの学校には東大・早稲田・慶応からの留学生もけっこういて、そんな優等生の中でプレゼンするのかと思うと緊張しかないけど、持ち前のなんとかなるぜ精神で乗り越えよう!

それはそうと、、、

課題を終えたあと、なんか良い映画みて心をすっきりさせたいなーって思いネットサーフィンしているとこんなものを見つけました。

千と千尋の神隠しについて。

不思議の町の千尋 ーこの映画のねらいー

この作品は武器を振りまわしたり超能力の力くらべこそないが、冒険ものがたりというべき作品である。

冒険とはいっても、正邪の対決が主題ではなく善人も悪人もみな混ざり合って存在する世の中ともいうべき中へ投げ込まれ、修行し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたりになるはずだ。

彼女は切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰ってくるのだが、世の中が消滅しないのと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。

今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに侵食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りてくっきりと描きだすことがこの映画の主要な課題である。

かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない。

千尋のヒョロヒョロの手足や簡単にはおもしろがりませんよ〜というぶちゃむくれの表情はその象徴なのだ。

けれども、現実がくっきりし抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動を発揮する生命を自分がかかえていることに気付くはずだ。

もっとも、ただパニクって「うそー!」としゃがみこむ人間がほとんどかもしれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下ではすぐかき消されるか食べられるかしてしまうだろう。

千尋が主人公である資格は、実は食い尽くされない力にあるといえる。

決して美少女であったり類まれない心の持ち主だから主人公になるのではない。

その点がこの作品の特徴であり、だからまた10歳の女の子達のための映画でもあり得るのである。

言葉は力である。

千尋の迷い込んだ世界では言葉を発することはとり返しのつかない重さを持っている。

湯婆婆(ゆばーば)が支配する湯屋では「いやだ」「帰りたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処にも行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて喰われるまで玉子を産みつづけるかの道しかなくなる。

逆に「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば魔女といえども無視することができない。

今日、言葉はかぎりなく軽くどうとでも言えるアブクのようなものと受けとられているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。

言葉は力であることは、今も真実である。

力のない空虚な言葉が無意味にあふれているだけなのだ。

名前を奪うという行為は呼び名を変えるということではなく、相手を完全に支配しようとする方法である。

千は、千尋の名を自分自身が忘れていくことに気がつきゾッとする。

また、豚舎に両親を訪ねて行くごとに、豚の姿をした両親に平気になっていくのだ。

湯婆婆の世間では、常に喰らい尽くされる危機の中に生きなければならない。

困難な世間の中で、千尋はむしろいきいきとしていく。

ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは映画の大団円にはハッとするとうな魅力的な表情を持つようになるだろう。

世の中の本質は、今も少しも変わっていない。

言葉は意志であり、自分であり、力なのだということをこの映画は説得力をもって訴えるつもりである。

(省略・・・)

ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間はもっとも軽んぜだれるだろう。

場所は過去であり、歴史である。

歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰われるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う

観客の10歳の女の子達が、本当の自分の願いに出会う作品に、この映画をしたいと思う。

http://www.eiga-portal.com/movie/sentochihiro/01.shtml

千と千尋の神隠しを映画館で初めて見たときわたしはまだ小学生で、具体的に何をテーマにしている映画なのかしっくり理解できていなかったのだが、

そんな中でも、強烈に印象に残っていたシーンがある。

それはカオナシに金を差し出された千尋が「欲しくない、いらない」と言ったシーン。

この千尋のまっすぐな表情と行動がただかっこよくて、大人になった今も「千と千尋」と聞くといつもこのシーンが私の脳裏に浮かぶのだ。

カオナシが比喩するものは人間の孤独と欲だ。

自分の暗くて弱い部分を隠すために、煌びやかに振る舞って太っ腹で良い神様を演じようとする。

だけど、そんな偽りのものには決して惑わされない千尋の純粋な直感力がたまらなく好きだった。

千尋に「いらない」と断わられたカオナシは、今まで取り入れてきた「偽りのもの」を体内から全て吐き出し、小さくて目立たない素の状態へと戻った。

だがそれは、欲を持たないという本来の可愛らしい純粋なカオナシの姿でもあり、千尋の旅にお供して出逢った湯婆婆のお姉さんの家で、きっと本当の自分を見つめなおしながら幸せに暮らしているのだと思う。

素直さと純粋さが持つ底知れない力を私はこの映画で教えてもらったと思う。

この2つのパワーをちゃんと意志にして生きると、どんな生き物でも魂を洗われるのだと思う。

また、千と千尋の神隠しには、環境問題(八百万の神様)のことなども含め、まだまだいろんなテーマが隠されている気がするけど、いっきに知ると眠れないからまた次回にしよう(笑)

本題に戻って、、、
「言葉は力である」という宮崎駿さんの想いについて最近ずっと考えてました。

とゆうのも英語の授業の中で、自分の想いや意見を述べたり、聞かれた質問に即座に答えないといけないという機会がとても多いんです。

わたしは○○が好き!
わたしは○○は嫌い!
わたしは将来○○になる!
わたしの目的は○○だ!

私はまだまだ複雑な英語表現ができないし、曖昧な英語表現がこっちではあまり好かれないというのも手伝って、いつのまにか自分の意見と意思を強く断言していることに最近気付きはじめたのです。

びっくりするくらいポジティブな自分を感じるようになった。

そんなことを繰り返していると、自分でも不思議なんですけどなんだかすごいパワーが沸いてくるようになったの。

私はもともと一日中なにかについて考えている人間で、浮き沈みも激しく、落ち込むときはすんごいひどい顔して落ち込んでるし、不安になりだすと迷路から抜け出せない性格。

でもこうやって英語を話すようになってから、確実に負の思考は減ってます。
だから、言葉って凄い力なんだって本当に思う。

だけどね、、、

宮崎駿監督が映画を通して伝えたかった狙いは、私にとって少し心が痛むものでもあります。

だってわたしはきっといま、うつろな現実の中で、のほほんと何も考えずに生きている人間だから。
困難な世間の中に帰ったとき、わたしは千尋のように逞しく生きて行けないかもしれない。

だけどね、、、

たとえ逞しく生きていけなくても、素直に純粋にだけは生きていきたいって思う。

それだけでも良くないかな?

相変わらずプレゼン下手だねわたし(笑)

ほんとうに明日からの授業が思いやられる!

(つづく)