乳がん検診で乳管内乳頭腫が見つかったけど気にせず生きることにした

7月7日、七夕。

この日は、一番親しい友人でもある幼馴染の誕生日だった。


「乳がんの検診にひかっかってん」


「局所麻酔して、シコリの細胞とって、いま結果待ってる。来週念のためにMRIも受けんねん」

幼馴染
「まだはっきりわからんねやろ?」


「エコーで見た感じやと良性のシコリやったらツルってしてるけど、私のシコリは1cmあってボコボコしてんねんて」

車の中で、突拍子もなく重たい話を軽く打ち明ける自分。

ひとりで抱え込みたくなかった。

 

幼馴染
「でも1cmで見つかって逆によかったんちゃん?」


「うん。そうとも言える」


「でも、、、もしおっぱい片方なくなったらもう恋愛できひんやん」

幼馴染
「おっぱいが片方ないぐらい俺はなんとも思わんけどなぁ?」

幼馴染
「男全員がおっぱいで彼女作るわけちゃうやろ?男を簡単に見すぎや!」

 

この幼馴染はお母さんを癌で亡くした過去があるから、こんな大人なことが言えるのかな?

だけど話していると不思議と気持ちが落ち着いてきた。

病院のベッドで胸に機械をあてられて検査されているときは、怖くて涙が止まらなかったのに。

 

もしも…… と考えたら止まらない不安に押しつぶされそうだった。

「もしも…」の前は「まさか自分が?」と思った。

こんなに好きなことだけして、なんのストレスもなく生きてるのに?

わたしには笑顔と健康しか取り柄がないのに?

それを取り上げるの?

なんで?なにが目的?

この経験から何かを学ばそうとしているの?

人生の中で起きること全てに「意味がある」ということはわかってる。

それを楽しめる自分だっている。

だからある程度のことはポジティブに受け止められる。

でも今回ばかりは酷すぎるよ、神様。

怖くて、どうしたらいいかわからないです。

どういう選択肢があるのかもわからないです。

そう思って、すぐに乳がんの自然治癒について調べ始めて知った本がこれだった。

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こうゆうのに出逢うときって、やっぱり直感だね。

半分も読み終える前に、「もしも…」だったときの答えは出た。

よりいっそう好きなことしかしないで、おもいっきり笑って全力で生きてから死んでやろう!

自分の体と心が気持ちいいと感じる方法だけで治癒してあげよう!

奇跡は絶対に起こるとスーパーポジテイブに信じよう!

この3つがわたしの答えだ。

家に帰って、お父さんに乳がん検診にひっかかったことを告げた。


「前からしこりあるって言ってたやつ、乳がんかもしれんって」


「でも、もしそうやったら速攻また旅に出るわ」

そう告げると、父はこう言った。


お前がガンなわけないやろ


「・・・」


「確かに(・_・)」

父は、2014年にステージ4の前立腺ガンとリンパを摘出をしたため体重が20kgも減って歩行困難に近い状態になっている。

痩せ細った父の見た目は、なんだか仙人にも近い。

そんな父にキョトンとした顔でそう言われて、納得にも似た感覚を得た。

無茶ばっかりしてきて、人生で3回ぐらい死にかけた経験のある父には、普通の人には見えない何かが見えるのかと、たまに思うことがある。

死にかけた時に「三途の川」もハッキリ見たそうだが、実のお母さんに「お前はまだだ!さっさと帰れ!」と川の向こうから怒鳴られてシュンっとして帰ってきたら、病院のベッドの上の自分の体と幽体離脱してたらしい。

私は、父の三途の川の話を普通に信じている。

 

結局、シコリの細胞から「悪性」の結果は出なかった。

でもそのシコリには「乳管内乳頭腫」という名前がついた。

約1cmのそのシコリの扱いがわからず、通常はどうすべきかと医者に尋ねる。

医者
この小さなシコリをとるために一生物の傷が胸につく方がリスクだと思うから経過観察でいいと思う

おとなしそうな女医さんからは意外な言葉が返ってきた。

そっか。わたしはこの可愛いシコリと一緒にこれから生きていくんだね。

なんだかわからないけど、また新しい心の境地で次の旅ができそうな気がしてちょっとワクワクさえしている。

また後日、次はMRIの検査結果を聞きにいった。

MRIが写した図にはシコリが広がってると見られる影があったが、もちろんこれが良性か悪性かまではわからないし、悪性だったとしても手遅れの直前になるまで日常生活や外見にはなにも支障が現れないらしい。

だから余計怖いというのもあるが。。。

お医者さん
細胞検査は良性と判断されたけど悪性の可能性もゼロじゃない。一番いいのは、前回した針検査をもっと太い針で多めに細胞を摘出して再検査すること

前回と違う男のお医者さんは、そう言って少しわたしを思考停止にさせた。

細胞検査に使う針の太さには3段階あるらしく、前回受けたのは真ん中の中針だったらしい。

すぐにどうこうと答えを出せない私に、お医者さんは重ねてこう言った。

お医者さん
「細胞摘出した時の写真を確認したら、ちゃんと細胞の真ん中から摘出できているし信頼できる結果であるとは思うけど」

お医者さん
「より安心したいなら太い針で再検査したほうがいい。今すぐじゃなくて4ヶ月後とか半年後でもいいと思う。それは自分で決めてね」

大きな病気になるほど、お医者さんは「大丈夫」という言葉を絶対言ってくれなくなる。

とりあえず今の気持ちを正直に言うと、もちろん不安はあるし、泣けと言われれば泣ける。

でも実はそこまで悲しくもなく、もちろん嬉しくも清々しくもない気持ちだ。

この先、人生に何が起こるかなんて今考えてもわからないし。

だから、わからないことを気にしても仕方がない。

都度受け止めていくだけで、考えないことにした。

これからもやりたいことがたくさんあって、その目標の道に立つために毎日体と頭を動かす、それだけの日々だ。

それだけで十分じゃないか。

「期待」という言葉は好きじゃないけど、旅の経験を重ねていくたびに自分自身の変化を心と体で強く感じてきた。

ありのままで生きていれば、前さえ向いて志していれば、また「奇跡に近いナニカ」に導かれると、わたしは勝手に信じている。

それに、わたしは今までの人生で常に充分すぎるほど「好き」を満喫してきた。

こんな言い方はおかしいかもしれないが、例えいつ死んでも「悔い」なんて微塵もない。

(おわり)