チェゲバラが生きていたらこんな時代に何を言っただろう?

Wi-Fi公園で声をかけられたギャングスター達に連れられ、オールドハバナにやってきた。

スペイン語のできない私と、英語のできない彼らの間はいつも会話が成り立たない状態だったけど、とりあえず彼らの陽気なジャスチャーに案内されるがまま、オールドハバナの街を歩いてみた。

おお〜!なんか映画のセットみたい!
クラシックカーってめっちゃ絵になる!

オールドハバナのシンボルでもある「カピトリオ」は昔、国会議事堂として使われていた場所で、当時は大統領もここに住んでいた。

1929年に建設されたとあるので、キューバ革命以前に建設されたことになる。

ここがアメリカの国会議事堂そっくりに造られた理由は、当時のキューバがアメリカ帝国の鬼畜支配下だったためだろう。

私がフロリダからキューバに入国する前、チェ・ゲバラの盟友でもあったフィデル・カストロ前首相が亡くなったことをニュースで知った。90歳だった。

まさにこれからキューバへ渡ろうとしていただけに、キューバの歴史を未だ熟知していなかった私ですら衝撃を受けた。

ゲバラが広島の原爆資料館を訪問した際に放った、この言葉を知ってますか?

「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」

アメリカとの国交が2015年に回復した今、もしゲバラが生きていたら、この時代を見てなにを言っただろうと、ふと考えた。

キューバ革命を共に率いたカストロとゲバラは、誰もが知る通り盟友であり、お互いをこの上なく信頼しあっていたことは紛れもない事実。

だけど、国家再建にあたってのゲバラの意志はストイックすぎたこともあり、衝突までしないとしても二人の間には多少の食い違いがあったことも事実だと思う。

バチスタ政権打倒後、怒ったアメリカ帝国により貿易国交が断たれてしまったことが原因で、キューバは貧困の危機に立たされた。

ゲバラがキューバを代表して、世界各国への親睦旅行にて新たな貿易ルートの開拓を試みるも、サトウキビしか特産物のない当時のキューバに良い条件を提示してくれる国は見つからなかった。

その後、ソ連が「キューバ国内に核爆弾ミサイル基地を建設することを条件」に援助を申し出たが、アメリカ側がそれを黙って許すわけがなく、この事件は第三次世界大戦をも予測させたほどの大危機を各国に招くことになった。

世界に誇れるほど美しいフロンティアなのに、他国の支援なしで生きられないとはなんと滑稽なことなんだろう。

ゲバラはそこをゼロから改革し、ラテンアメリカ諸国を本当の意味で「自立した国家」へ導いていこうと本気で考えていたのだ。

それは鎖国するという意味ではなく、帝国様の配下には決して属さなくとも国を潤していくという意味でだ。

だが、2015年に行われたキューバ市民へのアンケートでは、国民の97%以上がアメリカとの国交回復に賛成と答えたそうだ。(アメリカによる調査)

この賛成の意味にどういう背景が含まれているかまではわからない。

IT革命がもたらしたグローバリズムによる若者たちの意識変化なのかもしれない。

時は当たり前のように流れ、歴史を追いやり、当時のキューバの苦悩を抱えた人間の「言葉」だけが残り、そこにあった思想は、インターネットから溢れ踊る情報の隅にどんどん埋もれていってしまう。

わたしはそれが悪いことだとは思わないし、時代の変化に上手について生きていくことは、社会生活において大切なことだとも思う。

だが、それを「意志」を持たずに選んでいるだけならば、それはただの「洗脳」に過ぎないということを、今日改めて考えるきっかけになった。

今もし、誰かの支配下になることを心底嫌ったゲバラが生きていたら、この雑多入り乱れる時代に向けてなんと言ってくれただろうか。

それは、自分の心をチェ・ゲバラにして純粋に生きた先にしか見つからない答えだろうが、彼の死後もなお、なぜこんなに彼を傍に感じることができるのだろう。

(つづく)